2023/09/27

「時間」現代陶芸で表現


 
     2021年12月東京 篠原有司男さん(89歳)
https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/24941








2022/11/30

2022年第77回南日本美術展

自画像的作品「時間の肖像Ⅸ」




29日、表彰式でのスピーチ

「35年前、
私の陶芸家としての生き方に決定的な影響を与えた
一枚の手紙を読ませてください。
当時、現代陶芸に取り組み始め孤軍奮闘している私へ
励ましと背中を押し今へ牽引してくれたた一枚の手紙です。
その送り主は ニューヨークで現在も活躍中のアーテストの篠原有司男さんです。
鹿児島では霧島アートの森に買い上げになったダンボール紙で出来たオートバイの作品、や
2006年の大きな個展、今年の正月カラー写真付きで掲載された篠原さんの記事など
記憶されている方も多いかと思います。

”我がソーホーのロフトを訪れた古川君が焼き物屋だと聞き、
思わずお互いの陶芸観に話しがはずんでしまった。
やきものが現代美術と呼べるだろうか。
アメリカ西海岸に住む多くの異色陶芸家たちは
活発なな作品を発表しているが、
まだこのソーホーの大画廊での個展は
今のところ皆無。売れないからだろうか。
しかし、確固たる自己主張、表現形式を追求し続けるアーテストが
それがその成果だと自信を持って発表し得た時、
それが最近多いに期待を持たれ、現代美術のジャンルに
割り込んで来たやきものだとしても、
僕らは眼を見開き、心を全開にして受け止め
、賞味し、拍手を送ろうではないか。
といっても、輝く未来がそう簡単に手に入るものなら誰も苦労しない。
出来上がったやきものをたたき壊すのはたやすい。
粘土コネの時点では、大きさ、形などに
無限の可能性を秘めた造型も、
窯を通過し火あぶりにされ出てきたときは
いじけきったこわれ物でしかなくなり、
初めの純粋な創造精神は窯の制約で形は平凡に曲げられ、
色、肌ざわりまで均一化される宿命、
そのクラフトマンシップと呼ぶマンネリズムが
良し悪しを左右しアートとは遠くかけ離れたものにしてしまう。
古川君の冒険は違う。君の出来上がった焼き物は
見る者に、「これは一体何だ」と云う芸術の初原的で
最重要な質問をあびせる。
これら古川君のセラミック・スクラプチャーこそ
陶芸の固定観念を一掃し、
堂々現代美術の一翼を担いきっているはずだ。

1990年 ニューヨーク 篠原有司男」

私は今回の大賞を頂いた事をこの篠原さんへ胸を張って
報告が出来ます。35年も掛かりましたけど。

 

2022/11/20

2022年作品「時間の肖像Ⅸ・・自画像」

 






拝啓M先生
お祝いのメールありがとうございました。
この展覧会に於ける新聞社賞、これも遅すぎた感はあります。
一つの目標ではありましたが取り組んでいる事の通過点です。
それは30年来理解をもらえにくい仕事に取り組んでいて、ある程度理解を得るには
こんな実績があったらいいのかなあ、と思ったのですが、
ここに辿り着くまで時間が掛かりすぎました

普通の陶芸であれば今回のような受賞を重ねて経歴を箔付けし、デパートあたりの画廊で受賞記念の個展を
開き、入選入賞歴を誇らしげに掲げることを販促にする、私はこうういうやり方は一切考えていません。
私の持つ価値観が世間に受け入れられるものか自分で納得でき自信を持つには必要でした。
これで次のステップへ進めます。それは30年前に考えたあの手のひらにのる小さな土塊です。
世の中に百人の人の中にたった1人でも喜んでくれる人がいたら出す価値があると思っています。
展覧会のこの作品「時間の肖像」はシリーズとしてもう少し先がありますので
来年も続けます。この公募展の会場を借りた個展ですから。
普通個展を開いても観に来てくれる人はせいぜい200人程でしょうが
新聞社主催の展覧会ともなれば、その50倍もの不特定多数の人に観てもらえます。
陶芸が工芸の域をはみ出してもファインアートとしてやっと認めてもら得た思もしています。
ただ、35年前、あの東京の現代美術系画廊「いそがや」での個展がシリーズの始まりでした。
失われて行く時間で死生観を表した取り組みでした、また南日美展のシリース9点は新しい作品ではなく
すでに描いていました。10年前に出品した「時間の肖像1」は35年前に制作して山のアトリエに展示したいたそのものです。
しかし審査評は「現代美術のお手本になるような作品です。哲学的な・・・」と新聞に書かれています。つい笑ってしまいました。
友人O君の事や彼と一緒に移動式陶芸窯を作ったりしながら今を待ちました。
やっとそんなテーマが似合い、受け入れてもらえる老人になったという事でしょうか。
想像してみてください。 円空のような生き方の1人の無名、無冠の老陶芸家がただひたすら小さな壺を造る為に
ロクロを回している光景を。それが私が描いた陶芸家像で作品はその人物像です。
それが目標です。そこまで行き着いたらおめでとう、と言う言葉を素直に噛みしめて喜びたいと思います。
※友人は今死の床について 私に会いたいと言っているそうです。彼はアメリカに骨を埋めるつもりです。
 私は、もう行くことを考えていません。
古川






















2021/12/06

「時間の肖像Ⅷ」

「人体が部品化、または分断化しているように見える。身体がばらばらになっているが
時計の針が動いており、まるで心臓が動いているよう。絶望的な表情を含み、暗いメッセージ性のある重厚な作品に仕上がった。」※南日本新聞記事より
 






2021/12/04


この作家は言う、土そのものの質感「柔らかい」に拘る作品には人それぞれには与え
られた命の時間があり 、
自分自身を俯瞰て見て日常的な自分と身の回りのものを表している。 彼にとって陶
芸は自分を表現する手段であり、単なる道具に過ぎない。何を表現するかが最も大事
だと、彼は語る。
時計をモチーフにした思索的で重厚な作品である。棚の中に収められた黒陶のオブジ
ェの一つ一つが宙に浮かんでいて説得力がある作品。
彼は言う「私に仕えると同時に私を支配する日常的な物の中で時計は最も豊かな意味
を持っています・」と


 古川は陶芸家と呼んでいいのだろうか?

あるいは造形作家と呼ぶべきだろうか?

彼の作品は美術館などで何度も見てきた。

これまで、一点一点の作品を見た時

面白い作品を作る人だと思った

今回の個展では、彼の作品は大きな広がりと深みを持つ作品として現れていた。

空間が現実とは異質な空間になっている。

個展のテーマになっている「時間の肖像」に示されているように、

古川は土で時計を制作している。

この壁面作品は時計の針を無くした時計が数十個押しつぶされひしめき合っているいて これらの時計は時刻を示す時刻の数字が無い。この大きな作品は、時間の喪失という形而上的なテーマに臨んでいると思われる。

壊れた時計の塊は それだけ多くの彼の時間、あるいは過去が失われたような絶望感すら感じる。

この作品の中に1つだけ時を刻む時計がある。

この生きた時計は 他の全ての壊れた時計も、

以前は時を刻んでいたことを想起させる。

それはかすかな希望を感じさせる。

芸術作品は私達に感動を与える大きな要因に、

それが日常性を越えた独自の世界観を表現している事がある。 

古川の作品は、会場の空間全体で、その体感をさせてくれる。

美術館学芸員



2021/11/03